伊勢神宮の正式名称は「神宮(じんぐう)」であり、伊勢神宮とは、皇室の祖神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(内宮)と、天照大御神のお食事をつかさどる神として後に迎えられた豊受大御神(とようけおおみかみ)を祀る豊受大神宮(外宮)、および別宮、摂社、末社、所管社を含める合計125社の総称です。「伊勢参り」と呼ばれる参詣が一般化したのは鎌倉時代以降で、江戸時代中期になると「おかげ参り」として伊勢参宮が大流行しました。一生に一度のお参りのため、日本中から伊勢神宮に集団で集まってきた旅人たちをもてなした門前町を再現したのが「おかげ横丁」です。なお、内宮は宇治の五十鈴川の川上にあり、外宮は山田原(やまだのはら)にあり、2つの神社は7kmほど離れています。
伊勢神宮のお参りルート 伊勢神宮の参拝は「外宮(げくう)から内宮(ないくう)へ」、つまり外宮の正宮→外宮の別宮→内宮の正宮→内宮の別宮、という順番で回るのが正しいとされています。伊勢神宮は、正宮・別宮・摂社・末社・所管社の125宮社の総称です。125の全部をまわる必要はありません。伊勢神宮の中心は天照大御神を祀った「内宮」と豊受大御神を祀った「外宮」です。順序を守って回れば神様に失礼にはあたりません。 神域に入るときは外宮、内宮ともに橋を渡ります。外宮の橋は火除橋、内宮の橋は宇治橋と言い、外宮の参道は左側通行、内宮の参道は右側通行という決まりがあるので注意してください。橋の真ん中は神様の通る道なので踏んではいけません。鳥居の前まで来たら立ち止まって一礼をし、正宮にお参りする前には手水舎で手と口を清めましょう。参拝するときは、二拝(最敬礼を二度行う)、次に二拍手(手を二度打つ)、次に一拝(最敬礼を一度行う)が作法です。
火除橋(ひよけばし)から鳥居をくぐり、正宮にお参りするだけなら、30分ほどで歩くことができます。五十鈴川(いすずがわ)にかかる宇治橋を渡って神域へ入り、神苑(しんえん)、手水舎(ちょうずや)、五十鈴川の御手洗場(みたらしば)、正宮・豊受大神宮(しょうぐう)、古殿地(こでんち)、御稲御倉(みしねのみくら)、荒祭宮(あらまつりのみや)、風日祈宮(かざひのみのみや)、大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)、子安神社(こやすじんじゃ)、月読宮(つきよみのみや)をめぐるお参りルートが一般的です。
外宮の見学のモデルコース
内宮の見学のモデルコース
伊勢神宮の域内マップのサイト
内宮と外宮のイラストマップ
伊勢神宮の別宮(荒祭宮・月読宮・伊雑宮など) 「荒祭宮(あらまつりのみや)」は、内宮に所属する特別な別宮です。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られています。神道の霊魂に対する考え方に「荒魂」や「和魂」というものがあります。「荒魂」は神様の荒々しい一面のことで、ものすごいパワーを持っています。ここでは個人的なお願い事、何か決意表明をするのがよいと言われています。
域外の別宮として、月読宮、月夜見宮、伊雑宮などがあります。「月読宮(つきよみのみや)」は、天照大御神の弟神の月読尊(つくよみのみこと)が祀られています。『月を読む』と書く通りに夜の支配者で、月の満ち欠けなど暦を司る神様です。パワースポットとしても有名な場所です。また、同じく月読尊(つくよみのみこと)が祀られている「月夜見宮(つきよみのみや)」という別宮もありますので混同されないようご注意ください。
「伊雑宮(いざわのみや)」は、天照大御神の御魂をお祀りし、「いぞうぐう」とも呼ばれています(内宮の別宮)。古くから「遙宮(とおのみや)」として崇敬を集め、地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒が祈られてきました。毎年6月24日に行われる御田植式は、とても雅な神事で、「磯部の御神田」の名で国の重要無形民俗文化財に指定され、日本三大御田植祭の一つとされています。
内宮域内の「別宮」
外宮域内の「別宮」
伊勢神宮の域外の「別宮」
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ) 猿田彦神社は、外宮と内宮を結ぶバス路線の途中にある神社です。外宮から内宮行のバスに乗って猿田彦神社で下車し、猿田彦神社から内宮までは歩いてお参りができます。猿田彦大神は「みちひらきの大神」といわれています。日本神話における天孫降臨(てんそんこうりん)の際に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の命を受けた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を高千穂(たかちほ)へと導いたのが、猿田彦大神です。高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたったとされています。
『みちひらき』ということで、人生の道(仕事や学業)を良い方向へ導いてもらおうと全国から参拝者が訪れます。ご本殿は二重破風の妻入り造り(さだひこ造り)です。屋根の上の鰹木や柱や欄干は、猿田彦大神の御神徳にちなんで八角形になっています。
猿田彦神社のサイト
紀伊山地には「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」という三つの霊場があります。この3つの霊場とそれらを結ぶ参詣道、そして自然と人の営みが長い時間をかけて形成した文化的景観が、人類共有の財産としてユネスコに認められ、2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。 熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称で、日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社です。伊勢神宮からこの熊野三山を参詣する祈りの道が「熊野古道 伊勢路」と呼ばれ、和歌山県、三重県、奈良県の3つの県にまたがる長大な道です。
熊野古道と熊野本宮大社 古来より熊野は、川や滝、巨岩に神が宿るとして崇める自然崇拝を起源とし、「よみがえりの地」として、人々の心を癒やす特別な地でありました。熊野三山のひとつ、熊野本宮の主祭神は、スサノオノミコトで、歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。三本の川の中州にあたる聖地、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)の頃と言われています。奈良時代には仏教を取り入れ、神仏習合(神=仏)がおこりました。平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が参拝に訪れました。室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まり、男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。 明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受け、明治24年(1891年)に上四社が現在地に移築・再建されました。現在、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がお祀りされています。
熊野本宮観光協会のサイト
熊野本宮大社のサイト
高野山(こうやさん) 蓮華のように八葉の峰々に囲まれた山上盆地に広がる高野山は、弘法大師・空海が開いた日本を代表する真言密教の聖地です。高野山全体を「総本山金剛峯寺」とし、「一山境内地(いっさんけいだいち)」とされています。山内に点在するお寺は、塔頭寺院といいます。現在では、この境内にある117の寺院の内、52の寺院が宿坊として一般の参拝者も宿泊できます。 山内は弘法大師の霊廟がある「奥之院」と、「壇上伽藍(だんじょうがらん)」を二大聖地とし、今も人々の信仰を集めています。奥之院には、墓石群のほか慰霊碑や供養塔なども数多くあり、民族や宗教の違いに関わらず全てを受け入れる寛容さは、高野山が1200年継承してきた精神であり、その魅力となっています。弘法大師は奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという大師信仰が生まれました。現在も高野山は、僧侶たちが修行を続ける学びの場であるとともに、多くの人々の信仰を集め、親しまれています。
高野山真言宗 総本山金剛峯寺のサイト
総本山金剛峯寺・名所一覧
鬼ヶ城(おにがじょう) 志摩半島から続くリアス式海岸の最も南の付け根にあたる「鬼ヶ城」は、熊野灘の激しい荒波によって浸食された断崖絶壁が続く風光明媚な景勝地です(熊野市の市街地より北東へ約2kmに位置)。 凝灰岩の大岸壁は 高さ2~4mの崖は階段上になっており、波蝕洞の入口はどれも鷹のクチバシように先端が尖り、天井部分には蜂の巣状の風蝕跡が見られ床面は板のように平らかな棚となっています。中でも東口にある千畳敷は上下2段の大きな岩窟で鬼ヶ城のいちばんの見所です。日本百景にも選定されており、素晴らしい太平洋の絶景を望める観光スポットです。昭和10年(1935年)には国の天然記念物にも指定され、平成16年(2004年)にはすぐ近くにある獅子巖とともに「紀伊山地の霊場と参詣道(=熊野古道)」の一部として世界遺産に登録されました。
鬼ヶ城のサイト
月-金:09:00~19:00
土日祝:10:00~17:00
〒598-0093大阪府泉南郡田尻町
りんくうポート北5番6